10.12.2007 離れは無意識か?

多くの弓書やインターネット等で理想の離れについて書かれているが、これを鵜呑みにすると行けないと考える。

自然の離れについて
自然の離れが理想的であるのは、間違いでないようである。自然の離れとは体と心の働きの両方を表現していると考える。先ず離れとは、引き分けから残身に至る間に、作らずとも会が自然と生じ、身体と弓そして心が合うことにより、離れが自然と生じる。よって会と離れは射法八節に含まれるが、動作としてではなく、現象と考えられる。このように自然現象として起こると仮定すると、動作として会、又離れを作るのは自然ではないということになる。 自然の離れとは作為的でないのが第一条件であると思う。

身体の条件反射について
通常人間の身体は反復運動によって筋肉の反射がおこる。よってこの動作は意識的に行う動作を離れてほぼ無意識での反射運動によって行われる。例えばテニスの試合等で、相手の動き、ボールの方向は相手がボールを打ち返すまで用意できない。よって一秒以下の間に玉の落ちる位置を計り、性格にしかも狙ったところへボールを内返す動作は、意識的に動作を行うが、大部分は日頃培った反復練習の賜物である無意識下での反射運動によるところが大きい。これらはスポーツ一般に通じることである。意識的に動作を行う過程で一部ほぼ無意識的に反射運動が生じるといったほうが良いと思われる。離れは身体の条件反射として、反復練習によってほぼ無意識的に起こるという説明は間違っていないと思われる。但し、先人の稽古量は我々と比べ物にならない程のものであるから、この条件反射の精度は異なる。

精神の状態について
離れの技術として無念夢想にて離れるのを理想とするとある。これはその域に達した達人がいっているのであって、我々一般人はなかなか到達できない。しかし、噛み砕いて見ると、無念=集中しており、的にとらわれず、雑念の無い状態。 夢想=離れる前から結果を思ったりしない事。

理想の離れについて
各々習得の段階により、理想の離れについて言葉で表現すると十人十色であると思う。身体、精神の働き共に、無理をせず、どこも凝らず、力が流れ続けている事。離れが出たと感じる時は良い離れが出たときである。出そうと意識的にし過ぎると返って逆効果となる。よってやはり、表現としては無意識に離れるのがよいではなく、無意識に出た離れがよいとなるのではないであろうか? 但しこれは属に取られた離れではなく、万を期しての離れをさす。